みやこ子ども会 子ども報恩講

12月23日、みやこ子ども会主催の「こども報恩講2016」、無事に開催することができました!
今回は約40名の子供達が参加してくれました。
講師の先生の法話では「共命鳥(ぐみょうちょう)」についてお話をしてくださいました。「相手を傷付けることは、自分のことも傷付けることになるんだよ。」という言葉がとても印象的でした。
ハラハラドキドキのビッグかるたとりの後、おいしいぜんざいをみんなでいただくと、あっという間に閉会の時間になりました。
たくさんのご参加、どうもありがとうございました!
また来年も、皆さんにお会いできるのをスタッフ一同楽しみにしています☆

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但馬新内局の発足について | 東本願寺

去る12月16日の第63回宗議会(臨時会)及び第62回参議会(臨時会)において宗務総長の指名を受けた但馬弘氏が、本日、門首の認証を受け、正式に宗務総長に就任しました。また、同日付で5名の参務が任命され新内局が発足しましたので、下記のとおりお知らせいたします。

宗務総長  但馬 弘(たじま ひろし)【大聖寺教区 第1組 興宗寺住職/宗議会議員】

参  務  林  治(はやし おさむ)【大阪教区 第19組 玅善寺住職/宗議会議員】

参  務  木越  渉(きごし わたる)【金沢教区 第11組 光專寺住職/宗議会議員】

参  務  望月 慶子(もちづき けいこ)【山陽教区 第6組 浄泉寺衆徒/宗議会議員】

参  務  八島 昭雄(やしま あきお)【北海道教区 第4組 徳生寺住職/宗議会議員】

参  務  藤井 宣行(ふじい のぶゆき)【岡崎教区 第4組 淨圓寺住職/宗議会議員】

情報源: 但馬新内局の発足について | 東本願寺

四日市別院報恩講 京都組団体参拝

本日、宇佐市の四日市別院報恩講に、京都組から団体で参拝してまいりました。
組内各地より6台のバスに分乗。
僧侶・門徒総勢226名で参加いたしました。
本堂修復工事中は、3年間会館仮本堂で勤められてきた報恩講。
今春の竣工後すぐ、教区を挙げて御遠忌法要を営み、その後初めての報恩講でありました。
日程の最後に京都組混声合唱団のコーラスも。
厳粛なお勤めと、讃歌のひびきに包まれた一日でありました。

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如来は限りない大悲をもって 迷えるものを哀れみたもう | 浄土真宗ドットインフォ

悲しみは誰でももっている 如来は限りない大悲をもって 迷える者を哀れみたもう (『大経』) (出典:如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう 「真宗聖典」8頁) 大切な愛娘を突然亡くしたMさんは、私に言いました。「この苦しみ、悲しみはあなたにはわからない。同じ経験をした者でないとわからない」と。その時から私は、その話題を避(さ)けるようになり、今まで通い合っていた心の道が途絶えたような淋しさを味わいました。 新美南吉(にいみなんきち)の書いた童話に『でんでんむしのかなしみ』(大日本図書)というのがあります。一匹のでんでん虫が、ある日、自分の殻(から)の中にいっぱいの悲しみがつまっているのに気づいて、このままでは生きてゆけないと、お友達のでんでん虫を訪ねてまわるのです。 「私はもう生きていられません。(中略)私は何という不幸せな者でしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱいつまっているのです」(中略)すると、お友達のでんでん虫は言いました。「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」(中略)どの友達も同じことを言うのでありました。とうとうはじめのでんでん虫は気がつきました。「悲しみは、誰でももっているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなきゃならない」そして、このでんでん虫はもうなげくのをやめたのであります。 それはこんな短いお話です。 私たちはこの世の苦しみや悲しみにあうと、それを心の奥深くにしまい込み、ピシャリと蓋(ふた)をすることで忘れようと耐えながら日常生活を守ろうとします。そのたびに心の殻は厚くなり、現実からの問いかけや呼びかけにいきいきと応えて生きるいのちを枯渇(こかつ)させてはいないだろうか。波うっていた悲しみはいつかあきらめや後悔となり、人生の空しさとなって影を落とさないだろうか。

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迷信に惑わされ 正信を見失うことなかれ | 浄土真宗ドットインフォ

次々と現われてくるわが身の事実を納得し、受け入れる 迷信に惑(まど)わされ 正信(しょうしん)を見失うことなかれ 隅谷俊紀・作 育ててくれた祖母の影響か、遠き宿縁(しゅくえん)のみちびきか、看護師をしているSさんが、私どもの僧伽(さんが)で共に学ぶようになって、かれこれ10年近く経つ。 縁がなかったのであろう、離婚し3人の子どもを抱えての彼女の生活は、自然、世間に対しても自分に向かっても力が入ったものだったという。それも今では、善き先生方との出遇(であ)いをたまわり、先生方にあふれる如来(にょらい)の慈愛(じあい)に包み取られて、固く閉ざされていた孤独な心も少しずつとけ、苦しい胸の内をみんなと語りあっては、一緒に泣いたり、笑ったりしている。 そんな彼女が、こんな思い出話を聞かせてくれたことがある。ある時、2歳の孫が高熱をだし、1週間しても下がらなかった。その原因もわからず、いたたまれなくなった彼女は、当時、苦しくなると頼っていたお寺で、お百度(ひゃくど)参りをしたという。今、そのことをふり返ってみると、病気の回復を祈った心のその奥に、胸一杯にふくらんだ不安や畏(おそ)れから逃れようとする自分がいたことに気づく、というのである。 この話は「迷信(めいしん)」といわれるものの問題点をよく示していると思う。もし、「お百度参りのお蔭で、病気が治った」ということなら、非科学的な「迷信」として片づけてしまうことができよう。しかし、「そのことで不安がとけた」ということになると、話は別問題になってくる。「迷信」の問題は、科学(医学)の領域を超えた、それこそ「人間」という在り方にかかわる問題なのだ。だから文明がいくら進んでも、「迷信」は一向になくならないのである。 人間は肉体を生きるだけでなく、心を生きる存在である。心を生きるとは、次々と現われてくるわが身の事実を納得し、受け入れることができなければ、安心できぬ存在だということである。「なぜ、この私が、癌(がん)にかからねばならないのか?」、「死んだら、私は一体どこへ行くのか?」、こうした問いは、科学的な問い、客観的な問いではない。いのちを生きる主体の問い、つまり「私」の問いである。この問いにどんな答えを出すかによって、「迷信」と「正信(しょうしん)」とに分かれるのである。 「私」の望まぬ病気を、「私」が受け入れることができようか。

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真宗入門講座

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京都組では「はじめまして仏さま」と題して、「真宗入門講座」を開催いたします。
どなたでもご参加できますが、特に青壮年層の方々が受講していただくことを願っております。
苅田・行橋地区、北九州地区、みやこ地区にてそれぞれ3回。
4回目は合同で実施いたします。
詳細は以下のとおり。
ふるってご参加していただきますよう、お待ちしております。

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2016年真宗本廟報恩講のご案内 | お知らせ | 東本願寺

2016年3月31日に、御本尊・阿弥陀如来立像を、修復を終えた阿弥陀堂へお戻しする「御本尊還座式」が執り行われました。
11月20日から21日には、御正忌報恩講に合わせて「真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要」を勤めます。御本尊と親鸞聖人の御真影のもと、この一大事業に携わった全ての有縁の皆様とともに慶祝いたしたく、皆様のご参拝を心よりお待ちしております。

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