次々と現われてくるわが身の事実を納得し、受け入れる 迷信に惑(まど)わされ 正信(しょうしん)を見失うことなかれ 隅谷俊紀・作 育ててくれた祖母の影響か、遠き宿縁(しゅくえん)のみちびきか、看護師をしているSさんが、私どもの僧伽(さんが)で共に学ぶようになって、かれこれ10年近く経つ。 縁がなかったのであろう、離婚し3人の子どもを抱えての彼女の生活は、自然、世間に対しても自分に向かっても力が入ったものだったという。それも今では、善き先生方との出遇(であ)いをたまわり、先生方にあふれる如来(にょらい)の慈愛(じあい)に包み取られて、固く閉ざされていた孤独な心も少しずつとけ、苦しい胸の内をみんなと語りあっては、一緒に泣いたり、笑ったりしている。 そんな彼女が、こんな思い出話を聞かせてくれたことがある。ある時、2歳の孫が高熱をだし、1週間しても下がらなかった。その原因もわからず、いたたまれなくなった彼女は、当時、苦しくなると頼っていたお寺で、お百度(ひゃくど)参りをしたという。今、そのことをふり返ってみると、病気の回復を祈った心のその奥に、胸一杯にふくらんだ不安や畏(おそ)れから逃れようとする自分がいたことに気づく、というのである。 この話は「迷信(めいしん)」といわれるものの問題点をよく示していると思う。もし、「お百度参りのお蔭で、病気が治った」ということなら、非科学的な「迷信」として片づけてしまうことができよう。しかし、「そのことで不安がとけた」ということになると、話は別問題になってくる。「迷信」の問題は、科学(医学)の領域を超えた、それこそ「人間」という在り方にかかわる問題なのだ。だから文明がいくら進んでも、「迷信」は一向になくならないのである。 人間は肉体を生きるだけでなく、心を生きる存在である。心を生きるとは、次々と現われてくるわが身の事実を納得し、受け入れることができなければ、安心できぬ存在だということである。「なぜ、この私が、癌(がん)にかからねばならないのか?」、「死んだら、私は一体どこへ行くのか?」、こうした問いは、科学的な問い、客観的な問いではない。いのちを生きる主体の問い、つまり「私」の問いである。この問いにどんな答えを出すかによって、「迷信」と「正信(しょうしん)」とに分かれるのである。 「私」の望まぬ病気を、「私」が受け入れることができようか。
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